草取りから学ぶこと

この草は取ろう。この植物は残そう。
僕は形や見栄えで植物の命を選んでいる。

命。 みんな頑張って生きている。粘り強く生きている。
自分の命は、排除される命だろうか。選ばれる命だろうか。
草を取りながら考えることがある。

人は「草」と言うが、植物にはちゃんと名前があるようだ。
その名前も知らずに、ここにはこの花を植えるから、ここは一面芝生にするから、などと自分のイメージした光景を造るために植物の選択が行われる。
その光景を通して人々のコミュニケーションが豊かになる。

腰の痛みを我慢しながら畑に両膝をつき、先の細い鎌を使って草の根から掘り起こしながら草取りをしている。枯れた葉の裏にナメクジが居り、土の中からミミズやセミの幼虫などいろんな生き物が出て来る。その度に別の場所に移動してもらっている。多種多様の植物と生き物が共存している。

一つの社会を見ているようだ。二枚重ねの手袋、作業用ズボン、膝当て、長靴の姿で動植物の世界を上から覗き込みながら細長い鎌を土の中に差し込んでいる。覗き込まれている動植物にとっては、僕は侵略者であり、支配者であり、独裁者である。この姿での草取りは秋から春までは楽だ。しかし、気温が25度を超えると植物の勢いが半端ではない。草を取っても後ろから生えてくる状況になる。30度を超えると熱中症になるため独裁者も涼しくなるまで休むことになる。

動植物たちは活発になり、葉が広がり直射日光が直接地面まで到達しなくなる。微生物や小動物たちは丁度良い温度と湿度で一気に繁殖し始める。微生物や小動物により土の中の窒素が多くなり、植物は更に繁茂する。

別の支配者である地主さんが、僕の体を気遣って除草剤を撒き始める。
動植物にとって楽園のような環境が砂漠状態になる。花の苗を植えていたが、繁茂した草たちに覆われて見えなかったのだろう、その花たちも消え去った。
その下にあった芝生も一部消えてしまった。それでも1年経つと粘り強くあちこちに同じ草たちが顔を出し始めている。

効率を求めると、残したい物まで消えてしまう。
人間は、自然界の命に支えられているのに自分中心の生き物だなと思う。
自然界の中で、それぞれの生き物がどのような連携を取り、どれほど調和のとれた世界を作っているかを私達は学ぶ必要がありそうだ。

今の世の中、多くの人々を草のように見ていないだろうか。粘り強く生きているが、目立たない一人一人がどのように生まれ、愛され、寂しい思いをし、苦しい思いをして消えて行ったかを知っているだろうか。その一人一人がどれほど地域で頼りにされていたかを知っているだろうか。
知ることは困難でも、想像することはできると思う。

草取りから、命、自然界の仕組み、人間社会、効率を求めた結果失うものも多いことなどを少しだが学べたと思っている。 これからもいろいろ考えながら
草取りを続けて行こうとおもう。だから草取りを止められない。