どのような国に生まれ、どのような地域で生活し、どのような家庭で育ち、どのような先生や友達に出会い、どのような教育を受け、どのような仕事にめぐり合い、どのような失敗や挫折を経験したかなどにより、それぞれの価値観、考え方は一人一人異なってくる。これは、極当たり前のことだ。しかし、社会は共通性を求めてくる。
社会をスムーズに動かすためにはある程度の共通性が必要。つまり大きな物差しが必要になる。この大きな物差しは、時代と共に更に細分化され、この物差しを基準に前へ、上へと事が進んでいる。 この物差しに着いて行けない人々は、自分の物差しを求めてあまり目立たない生活になって行く。波に乗り、調子良い時は、自分の物差しが絶対的に思えて来る。しかし、時間と共に物差しの基準が変わり、また、自分自身の物差しについて行けず焦りを感じ、年齢と共に物差しのサイズを修正せざるを得なくなる。
その時、世の中の物差しに着いて行けなくなった自分を情けなく思ったりする。
社会的物差しは必要だか、それに着いて行けなくなった自分を卑下する必要はない。
自分の物差しは、年齢と共に自分流に進化していることを知る。
3.11の画像と共に流れた「-人間失格~生きる事はすばらしいのです」の曲を聴いた時、「それでいいんだよ、君でいいんだよ、すべていいんだよ、きっといいんだよ、明日は明日の風が吹く」の歌詞に救われた。
今の世の中の物差しは、いつまで通用するかは不透明だ。これから必要な物差しは、他人に自分の物差しを押し付けることなく、他人の物差しを受け入れる部分を持ち、自分の物差しに自信を持ち、物差しの変化の中にこれだけは変わらない共通性を見出して、共に生きて行く物差しではないだろうか。