あの時、自分は何故水路周辺の薮を払い始めたのか?

以前からこの地域に10年以上放置されたままの薮が多数存在していることは知っていました。そして高齢化と農業の後継者不足が年々深刻化して行くと、いずれ再生不能になる臨界点を迎え全ては過去になりこの地域に未来はなくなると真剣に思うようになりました。このまま時間が過ぎると、自分自身もいずれ体力が落ち想いを形にすることも不可能になると考えました。

2019年12月 1日体は想いを形にするために自然と動き始めました。

医者が何を始めるのか、農業をやったことのない奴に何ができると思っているのか、やるならやってみない!と何年も前に言われたことがあります。一つの薮を綺麗に払い、焼き払い、耕して小麦を作りました。その時に、以前嫌味を言った農業者から、やっぱりあんたじゃないとできんな!と言われたことをしっかりと覚えています。地元からいろいろと言われることを覚悟しながら始めました。

これまで払ってきた薮の中には様々なゴミが大量に捨てられていました。

このままにしておくと耕作放棄地はゴミ捨て場になり、地域の若者は出て行って帰ってこなくなるだろう。ゴミ捨て場の状態になった土地を高齢者が元に戻すのは時間と共にほぼ不可能になるだろう。その光景を見る地域の人々は、いずれ誰かするだろうと思いつつも諦めに変わって行く。

このような想いが年々大きくなり、もう今しか無いと思い自然と動き始めました。

まず景観を良くするために、薮の向こうが見えるようにしました。その結果川越産業の社長も重機を出して動き始めました。結果として、女性や子供達が安心して通れるようになり、安心が広がりました。花が一面に咲くようになり、喜びと地域の可能性が感じられるようになりました。

別の地域からわざわざ散歩に来る人が見られるようになりました。

薮だった田んぼが復活して、皆んなで作った米をこども食堂に300kg寄付することができました。

地域の会話が増えました。県外から移り住む人が少し増えました。

いくつも可能性を感じるようになり、以前から考えていた津波に対する防災を少しずつ自分の夢の一つとして考えるようになりました。

地域の早期水稲が終わった後、秋には一面にコスモスが広がり、春になると一面が鏡のようになり夕陽が二つ見える。5月、6月になると一面が緑になる。

このような光景を約30mの高さのレストランからビールを飲みながら眺めることができればと。

そのためには、近くにある大きな駐車場に立体駐車場を作り、最上階にレストランを作れば経営しながら維持管理できる避難タワーになるのではと。

夢というか、目標というか、いや自分勝手な妄想で突き進んで来ました。

しかし、川越産業の社長が81歳になり、昨年の夏は重度の熱中症で一週間以上寝込んだことや、自分の医療の仕事も高齢化と共に看取りが多くなり、忙しさで当初の夢も色褪せ、肉体労働もままならなくなりました。

先日、水路沿いのコスモスが今年で最後になることをお知らせした時に、自分は何故このようなことを始めたのかを思い返すこととなり、このような長い報告となりました。

夢はいつか現実になると思っていましたが、自分の力不足で夢のままで終わりそうです。

いつか現実になることを夢みてます。