お知らせ

近隣の農業・農地の現状報告と今後について

2018年11月19日

十数年前から日高医院近辺の農地が荒廃しゴミ捨て場になって行くのを見て来ました。往診で何度も同じ場所を通る度に何も変わらない状況に、自ら草刈り機を買い地主さんに断りを入れて一人で草払いを行ないました。

近隣の農家の人から医者が何でそんなことをするのか、出来る訳がない、やるならやってみない、などと嫌味を言われながらやりました。荒れた田んぼも3枚開拓し、突っ込み井戸を作り水が入るようにしました。なぜなら地域が早期水稲を行うため8月には水が流れなくなるからです。

地域を少しでも活性化するために子供達や高齢者を招いてみんなで田植えをして来ました。水は井戸水を使っていますがしっかり水利組合が徴収に来ます。徴収に来られた方々は実情が分からないため、忠実に仕事をされているだけです。その方々には何も問題はありません。

別の田んぼでは、キャタピラ付きのトラクターでも沈んでしまう田んぼを長年かけて花菖蒲園にしました。患者さんの家族が串間市から軽トラ2杯分の花菖蒲の苗を持って来てくれました。きれいに咲く頃は、デイサービスの送迎の車が回り道して行く状況でした。

それでも荒廃した農地はまだまだたくさんあります。以前農業委員会の方に「これからの農業の高齢化と後継者不足、農地の荒廃に対してどう取り組もうとしているのかを聞かせて下さい」と質問したことがあります。はっきりした回答はなされませんでした。

今のやすらぎの田園は、川越産業の川越勝功さんから「そんなぬかる田んぼより、オレの畑を使わんね」と言われたことがきっかけです。コスモスの苗を植えたことから始まりました。秋になりみんなが見に来るのが嬉しくて、地域の引き籠りがちな人々が少しでも出てくればと、そしてこれからの地域の有り方について気軽に話し合える場所になれば、ただ挨拶するだけでもいい、自然を眺め、共に地域の良さを感じ合える場所であればいい、と考え休憩所を作りました。

そして、津波対策用の備蓄米作りを子供達やお年寄りを招いて田植えを行ないました。大盛況でした。しかしこれまで開拓した土地は、自分が手入れを止めた後には元の荒地に戻っています。達成感と同時に無力感も感じます。

やすらぎの田園の真正面に廃墟になったハウスがあります。ビニールは破れかぶれ、中も外も草だらけ。この経営者は妻と二人でハウスの仕事をして来ましたが、妻が体調不良で入院した後、夫は何度も熱中症になりながら一人でハウスの仕事をして来ました。

2年前に「もう疲れた、もう止めじゃ、もうやりきらん」と言ってそのままになりました。草ははびこり、ハウスの外の道路まで拡がっている状況です。どうにかして欲しいと経営者に言いたいのですが、気力、体力共に落ち込んでいるためなかなか言えません。道路に面した草はこちらで払いました。
このまま何もしなかったら地域はみすぼらしくなり、若い人々がここに住もうと思わなくなり、高齢化と共に地域が崩壊するという道筋が見えて来ます。

やすらぎの田園の田んぼは、81歳の農業者に耕してもらっています。肥料を撒いてもらい、代かきをしてもらい、田植えをしてもらい、水の管理をしてもらい、草払いをしてもらい、稲刈りと脱穀をしてもらい、籾を乾燥に出してもらい、できた籾を倉庫まで運んでもらっています。無理をしないで下さいというと、農業が楽しいからと言われます。意欲のある農業者にとっては健康の源になるようです。多くのボランティアの力で成り立っていますが、このまま行くと自分達も皆高齢化し息切れします。その時、農地はまた荒地に戻って行きます。

農地が荒れないようにして美しい田園を後世に遺して行きたいと思っています。仲間を作り十数年頑張って来ました。でも以前のようには動けません。
今自分が頑張っている間はやすらぎの田園を維持できるかも知れませんが、本当の目的はやすらぎの田園を維持することではありません。

一般に開かれた農地にして、食に困らない地域作り、災害に強い地域作りをして、東京・大阪などの大都市が大きな災害を受けても宮崎が日本をしっかり支えることが出来る「裏方」になることです。お金がなくてもお腹を満たすことが出来る地域、子供食堂をみんなが作った米や農作物で支援し子供達が安心して大人になれる、そしてその子供達が新しい日本を造って行く。そのようなことを毎日考えています。

日本の食糧(カロリーベース)自給率は、昭和40年で73%でしたが平成29年には38%に減少しています。日本経済や世界情勢の悪化を考えると、いつまでも輸入だけに頼ってはおれません。宮崎の気候、日照時間の長さ、荒地を含めて農地の広さ、自然資源などを総合的に考えると、宮崎は日本を支えるために十分頑張れると思います。

超高齢化による農業者減少の中、今みんなで農業を引き継がないと、本格的食糧不足になった際は農地開拓からのスタートになります。それではあまりにも遅く、日本を救うことはできなくなると考えます。

自分自身を救うこともできません。

行政の協力も得ながら、まずは今の農業をみんなの力で支え、引き継ぐことが必要ではないでしょうか。